自由に自然に自給自足パーマカルチャー生活つくり日記
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道の駅と旬と元気野菜

今日は最寄の道の駅に行った。
こちらに来てからほとんどの野菜は道の駅で買っている。地域産であるし、過剰な包装もしていないし、それに量のわりに安い。
(「道の駅」とは全国の国道沿いにある地産市場のようなもので休憩所でもある。地域の農家は収穫物を自分で道の駅に陳列しにくる。)

■コスト
この安いというのは、いろいろあるけど一袋70円とか100円とか、150円とか。時々これでいいのかな?と思うこともあるけど、これが普通の値段なのかとも思う。スーパーの野菜はあたりまえだけど、運送料、卸屋、販売店の取り分が加算されるから、農家が直接収めている道の駅では、その加算分がのっていないわけだろう。
ただ実際そのコストが生活を支えるに値するのかという観点が考えるとやっぱり割に合わないのでは?とも思えるのだけど、実際割りに合っている清貧な生活をおくれているのかもしれない。


■旬
道の駅でいいところは旬の収穫物がよくわかる。
今日いくとナスがたくさんあった。つか、ナスばかりあった。農家によっていろんな形のナスになっている。つまり最近はナスがよく収穫できる時期なんだろう。旬を知らずに育っているけど簡単に理解できる。
だったらナスを食べればいいのだろう。


■タイミング
つまりその時期その時期に自然と与えられるものがある。
それを食すことが一番楽チンということ。自分自身が欲するものを欲するタイミングで得ようとすることには努力が要する。
もしその欲するということが、別にどちらでも構わないレベルであれば、その努力はもっと他のことにも使える。この努力とはコストということでもある。


帰りにスーパーに寄った。
キレイに陳列されているのがわざとらしく感じてくる。しかしこれが生活の食事事情にとってあたりまえの光景だと思い込んでいたことに気付く。

欲しいものを食べる
あるものをいただく

我慢しているうちはたいへん
我慢でなくなるということは欲しないということ
つまり楽チンになる
楽チンに与えられている


サスティナブルとは、楽チンに与えつづけてもらうこと
決して永遠にがんばりつづけることでもない


楽チンとか言うと、感情的に反感をかう世代の方がいるようだけど、楽チンとは自然ということ。ただ自然にということ。ぼくらの世代では楽チンといったほうが共感しそうだから。

パーマカルチャーの自然共生の感覚はこんな場面にもさとしてくれるものだった。

■旬の料理
我が家ではマクロビオティックな本とともに、ブックオフにて大人買いしてきた「粗食のすすめ」というシリーズが5冊ある。

季節にわかれているというので、その時期の野菜が使われており、道の駅の野菜事情ともリンクしてとてもよい感じだ。
単にレシピを見て、これ食べたいとか言っても、旬でなければ食材の入手に手間とコストがかかるので却下される。作れるもの作りやすいものが季節ごとに紹介されているのでとてもわかりやすい。

粗食という言葉のイメージが貧相な感じだけど、実際食してみると元都会人からするととてもありがたい食事になる。味だけに走って「おいしいもの」を食そうとする姿勢は楽チンではない。
「いいもの」を食そうとすると、いろんな意味で好循環になる。健康・コスト・味・環境 だから料理とは「味」を追求することから一歩離れないといけない。
ちょっと大味であっても、食材が旬でいいものであると、それだけで満足感が得られる。舌ではうーんとなっても体が満足している。しかし旬のものを使うとそれだけでほとんどの場合おいしくいただいている。


■自家野菜
先日は自家野菜と知人からいただいた自家野菜だけの夕食ができた。
自給自足っぽいわけで、とてもおいしかった。
空芯采とゴーヤ、きゅうり、葉もの数種類、おくら、お米。
玄米だけ青森の元気米を混ぜてある。
和え物と野菜炒めとおくらの吸い物とご飯

味もさることながら、そういう生活の一端を迎えられてちょっと感動した。シンプルな献立だけど、おなか100%でちょっと食べ過ぎ。
粗食でも豪華になってしまう。とてもおいしかった。

スタイルでマクロビオティック等を追いかける風潮がロハスなジャンルとしてあるけど、農薬や菜食にこだわるばかりがいいことではない。自家製という自給感覚がきっと一番の安全で安心にあることは間違いない。お金だけで追い求めていてはロハスもジャンクもそう変わらないだろう。

■野菜の元気
減農薬食や有機野菜、マクロビオティック等でいろいろ安心とキレイをもとめて流行もしている。農薬の実態が悪とされ、産地偽装やBSEで揺れる肉食を敬遠し、ロハスに食したい風潮。

ここにきてほぼ菜食の食生活を送ると気付くことがある。
それは野菜の元気。微妙な感覚だけど、都会で死んだ野菜を多く食していた自分だからこそ感じるのかもしれないが、野菜が生きている感覚がある。それは有機だとか無農薬とかではなく、現地野菜だと土に根ざして生きている感覚。

野菜が生き物として認識できる瞬間だ。

モノによっては大量生産的に生産される野菜は、いくら無農薬や有機だといっても、その過程で生きる気力とかが薄れているのではないだろうか。自身が家畜として将来夢も希望もなく成長させられている姿を想像すると、流通品はどうしてもこのジレンマから抜け出せないような気がする。これは生産者のマインドとも必ずしも一致しない。生産者はいい野菜を送り出すことに努力し野菜を愛しているかもしれない。またはそうではないところも多くあるだろう。
特に地下農場とか、発泡スチロールで肥料だけで育てられている大量生産の野菜とか、生き物として気持ちよかったかどうかは、野菜に聞いてみないとわからないけど、少なくとも土から収穫され手から手へと渡ってきた野菜はどこか自由ですこやかな感じがする。小さくても変形しててもそれが個性として自由だ。

そこに多少の農薬だの化学肥料だのとこだわるのではなく、その元気があれば、農薬は洗い落とせばいい。
無農薬や化学肥料だけに敏感に反応しているロハスな感じは、逆にジャンキーだ。消費者と生産者が一体となった元気な野菜つくりができるシステムになれば理想的なんだろうなぁ。


この感覚を逆手に考えるとパーマカルチャーに求めらるライフスタイルとは、自分がそのように自由で元気にならなくてはならないわけで、野菜も自分も動物も同じレベルで考えられるようになるに違いない。

※誤解されないように書いておくが、本当にいい元気な野菜を生産してもらい、腕のいい料理人に厳選素材で調理してもらい多少高価になった食事を食すセレブな感覚がいわゆる「ロハス」の本質でもある。だからお金で買う本当に良質なものの追求は実際にロハスであるわけです。
「お金があればなんでもできる」(byホリエモン)は時に真実でもある。

Posted by syn at 2006年09月08日 14:57 | トラックバック(0)
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